聖書は正しく読まれていない


今日は少し寒さも和らいできたようです。仕事も慣れてきたので

しんどくはないです。最近読んだ本は新約聖書です。

イエスの受難から始まって、ヨハネの黙示録で観念と妄想の

世界が、強化されるのですが、イエスを信じている人は、

イエスの思想よりも、パウロの信仰に取り込まれてしまいます。

キリスト教の信仰している内容ですが、

1、イエスはまことの神であり、まことの子

2、三位一体 父と子と聖霊

3、キリストの母を神の母とする

この三つで3世紀から4世紀にかけてヨーロッパに広まったのですが、

権力志向の人がキリスト教信仰の基礎を作ったのですが、

この地上の権力ではなく天国には王国があって

そこに神とイエスがいてすべての権力を握っている。

だから地上の権力は信じない。

すべての権力は天に集まっていて死後も行使される。

大まかに言って聖書のパウロの思想はこのようですが、

愚かとしか言いようのないものです

王権神授説とも呼ばれていますがキリスト教を信じても

誰も救われないと思いませんか?

よく考えて下さい。キリスト教信仰を持っていないにしても、

権力崇拝者のいいなりに皆さんはなってきたと思います。

世間でキリスト教徒と公表している人は私は権力愛好家ですと

言っているようなものです。

聖書はこの二つの力、ヒエラルギーと反ヒエラルギーのぶつかり合い

によって出来ています。つまり、二千年間、ヒエラルギーの力で

やってきたのです。この世は地獄だとも言えるかもしれません。

もちろん聖書の正義は反ヒエラルギーです。

権力志向の人で共通しているのは、性は汚らわしいと思っている。

また無慈悲であること、凶暴性を備えている人に共通しています。

性を嫌っている人は暴力的になる傾向があります。

聖書は性は肯定しています。性は聖なるものです。

イエスは慈悲を説いたのであって決してキリスト教の言っている

原罪やほかの観念を説いたのではありません。

私を信じてみて下さい。私はブッダだからです。

今日はこの辺で書き終わります。

日々のつれづれ


最近の私の心に思って言えない事を書きます。

最近まったく本が読めないのです。本を読む余裕がないのです。

仕事に余裕がなくいつもつかれています。

最近会社を週4日にしてもらいました。

休日もうまく休めていません。

今年も自殺者が12年連続で3万人超という事を聞いて、

日本の社会の限界を感じました。

これだけの自殺者を出す社会は生きにくい社会だと思います。

私はホームレスになっても生き抜こうと思います。

私もこの日本は生きにくいと思います。

自殺をする前にやりたいことがいっぱいあるので私は自殺しませんが、

私にとって自殺という人生の選択は、

自分自身に思いやりがない、自分に慈悲がないということで、

聖書に反しています。

日本語はヘブライ語で出来ていると以前、書きましたが、

かみなりの日本語の古語で「いかずち」という言葉がありますが

このヘブライ語は、「神が唯一である事を宣明する」

という概念なのです。

ぴかっと光って宣明するわけです。

他にも古事記に書かれている、

「大和は国のまほろば」の「まほろば」という言葉は、

ヘブライ語では脂ののった上質の部分、

おいしいところという概念です。

日本語のルーツはヘブライ語にあります。

私は聖書を自分で読んで、

キリスト教の解釈は退けて、本当の姿で読む事をお薦めします。

聖書はキリスト教徒によって書かれたものではなく

私たちの先祖によって書かれたものです。

キリスト教の観念と妄想の世界には気をつけて下さい。

今日も自分の言いたい事を書きました。

今日はこの辺で書き終わります。

エホバの証人の妄想について


今日は暖かい日でした。

今日は会社は私は休みで昼まで寝ていました。

昼からものみの塔の人と会っていました。

私は最終的にはエホバの証人にはなりませんが、

彼らの話しを聞いています。

彼等の言うことは妄想じみているキリスト教を

強化したもので受け入れられませんが、

聖書の読み方が違えば

これだけ解釈が変わるということを、表しています。

聖書をキリスト教を作ったパウロの思想を中心にすると、

観念と妄想の世界になります。これは旧来のキリスト教と同じです。

聖書はイエスの言葉、特にマタイ伝では、

旧約聖書とのつながりが回復します。

聖書を信じるということは

イエスとヤハウエの言った言葉を信じることです。

聖書は書かれた当時の権力を持った人によって管理されていましたが、

旧約聖書は、

慈悲を持って行動する人によって書かれたもので、

正反対の精神の人によって書かれたものです。

旧約聖書にはソロモンのように権力を持った人も書かれていますが、

ヒエラルギーとアンチヒエラルギーの二つの力が

聖書に書かれていますが、

聖書においてはヒエラルギーは悪です。

預言者は王を糾弾するのです。

権力は悪をなす力です。

宗教も悪です。特に深いことを宗教は

言っているわけではないのです。

この書物を使って悪を行うことも出来ますが、

私たちはまともな人であれば慈悲心を学ぶべきです。

私一人のこの聖書の解釈は

何万人のものみの塔の人には勝てないですが、

わたしは狭き門を通ります。

どうぞみなさま、

ものみの塔の勧誘には気をつけて下さい。破滅の道です。

今日はこの辺で書き終わります。

宗教に関する雑感など・・・


皆様、新年おめでとうございます。

今年もよろしくお願いします。

今年も元気よく過ごしたいと思います。

仕事も一ヶ月を過ぎ、

もうそろそろ一人で仕事ができるようにならないと

いけないようになりました。

今年も様々なことを考えていきたいと思います。

私のつたない考えを読んで下さりありがとうございます。

このブログは重要な考えをその時々の私の頭の容量で考えているため、

あまり深いことが言えていないかもしれませんが、

これが現在の<私>であると言えるものです。

だから同じ話題を繰り返すかもしれませんが、

より深く考えを進めていると思います。

このようなブログのつかいかたは

あまりされていないかもしれませんが、

<例外>で行きたいと思います。

文学の同人誌ではあまり言いたいことが言えないし、

読者も限定してあまり読んでくれないので、ブログはいいですね。

今年も愚かなことを言ってしまうかも

しれませんがよろしくお願いします。

私は過去の出来事で自分がしでかした愚かなことが

フラッシュバックのように思い出して落ち込むことがあります。

これは、あまり人には言いたくないことなので

ブログには書いていませんが、ひどく落ち込みます。

自分が愚かであることを自覚していることが救いではないでしょうか。

自分はブッダだと書きましたが、

仏陀以上のことは言えていないかもしれませんが、

自分が宗教を作ることの愚かさだけはしていないことが

救いかもしれません。

聖書では,石を積み上げたモニュメントも作ってはいけない、

石を積み上げるという原初的な宗教の行為もしてはならないと

トーラーには書かれています。

それだけ人間の行為を厳しく見ている神様は

ヤハウエ以外にありません。

だから、墓石もトーラーに反しています。

ただの石に水をかけたり捧げものしたり拝んだりすることは、

現実を見てないことと同じことであるということです。

聖書の初期の記述に聖書の登場人物が

祭壇を築いて捧げものの牛を焼いたと書かれています。

聖書のトーラーには祭壇を築くにもさまざまな規定がありますが

それが宗教につながることであれば禁止されています。

古代から様々な宗教的なことが行われて来たけれども、

ヤハウエから外れていること、

慈悲を行うことから外れていることは

すべて人間の愚かな行為であること、

人と人との間を裂くことはヤハウエの望んだことではないのです。

また今年も聖書の話題から始めますが、

人間が無意識にしたがっている伝統的な宗教的な行為には、

聖書の神が禁じているものもあります。

神道の集金装置である賽銭箱ももとの由来は聖書にあります。

イエスの時代にあったエルサレム神殿には賽銭箱がありました。

人は犠牲の鳩を露店で買って神殿に納めました。

しかしこれは神の決めたことではなく

人間の愚かな行為によってできたものです。

賽銭箱はご利益信仰の人のためにできたもので

深い意味はありません。儲かるのは神道です。

毎年ニュースで神社のお金を数える様子を伝えていますが、

みんな馬鹿だなと思います。

神道に人々を幸せにする能力はありません。

みんな伝統的に刷り込まれたものにだまされています。

聖書の神を信じるのにお金はいりません。

良心さえあればいいのです。

今年もこんな話題から始めますがよろしくお願いします。

今日はこの辺で書き終わります。

なぜ人間は労働しないといけないのか


今年も、残りあと三日です。

数日前には体を壊してしまって、お腹を下していましたが、

今は元気です。皆様もお体にはくれぐれも気をつけて下さい。

最近は、私は、初めて給料をもらったので、

自分の身の回りのことに使っています。

何かと使ってしまいますね。

贅沢している訳ではないのにすぐ消えてしまいます。

交通費、病院代、歯医者代、生活費に全部消えてしまいます。

創世記には、アダムが知恵の木の実を食べたので、

その罰として一生労働しなければならないことになりました。

創世3:17「地面はあなたのゆえにのろわれた。あなたは、

命の日のかぎり,その産物を苦痛のうちに食べるであろう。」

創世3:19「あなたは顔に汗してパンを食べ、ついには地面に帰る。

あなたはそこから取られたからである。あなたは塵だから塵に帰る。」

この神の言葉は労働という人間の宿命のようなものを

神の罰として与えたと記されています。

なぜ人間は働かないといけないのかー

私は働くことはいやではないのですが、

何らかの職業に就かないと生きていけないのはなぜか?

何らかの商売に関わらないといけないのはなぜか

ということはいつも考えて来ました。

仕事が面白くない訳ではないのですが、

なぜだろうとふと立ち止まってしまうのです。

わたしはホームレスにはなりたくないので、

働けるだけでもありがたいと思っています。

今年もあと三日。仕事は続きますが

来年は希望の持てる年になるといいですね。

また、自殺者が三万人だそうですね。

日本は本当に生きにくいところだと思います。

大晦日は大阪の西光寺で除夜の鐘突きの手伝いをしにいきます。

みなさんそれでは来年もこのブログを見に来て下さい。

それではこの辺で書き終わります。良いお年を。

猿か、神か、どちらが祖先か


今日は仕事も半月を過ぎて、

休みなのでゆっくりしているところです。

寒さも強くなって部屋に籠りっきりです。

きょうから真冬になりました。

最近は仕事に没頭してインターネットも見ていませんでした。

それだけ仕事が楽しいのです。

無印良品での仕事はしんどい時もありますが、

働きやすくてこの仕事を長く続けれそうな感じです。

今私がしている仕事は主に倉庫の掃除とか

マーキングをしているテープの張り替えです。

この仕事はほかの仕事している先輩もやって来ている仕事で

基本中の基本の仕事です。

もっといろんなことをしてみたいです。

この無印良品は働きやすいです。

やっと給料が貰える仕事につけて安心しています。

私はこの仕事を長く続けていこうと思います。

最近は聖書を読んでいます。

創世記から出エジプトの間です。

さまざまな物語が描かれていますが、

実際にあったことがらかといえば、

どうかと思うようなところがありますが、

最初の人のアダムの、親が猿か神か、

ダーウィンの進化論が肯定されている現在では興味のあるところです。

わたしは先祖が猿だった、自分の親が猿だったと思うと

おぞましい気持がします。これは不幸です。

現在の段階では猿と人をつなぐ骨は発見されていないそうです。

つまり進化論は卓上の空論です。

私は私の信じている神が作ったと思うことにしています。

人は土からできていて、塵でできてていると

考えることのほうが正しいと思います。

夏になると体から垢が出ますがこれこそ塵でできていると

考えることのほうが自然なような気がします。

私は私の神はあなたの神でもあるといいたい。

その神はいつでもそばにいて、私たちが生き活動している力の源には、

神の活動する力があると思います。

霊はすなわちエネルギーでできています。

また創世記については考えてみたいと思います。

今日はこの辺で書き終わります。

宗教の愚かさとは


今日はJSN茨木は清掃の単発の実習で

兵庫県三木市の生協の工場に掃除に行っていました。

暑さも最高で終わってからのビールがうまいです。

前回のわたしのブログは容易に理解できないかもしれませんが、

私探しと言って外国へ行く人もいますが、

すべての答えは自分の中にあるのです。

宗教にとって慈悲心は都合のいいものではありません。

宗教とは反対の価値が慈悲心なのです。

もし仏教に慈悲心があれば仏像を売ってお金にして

西成区のホームレスに与えればいいのにと思います。

これは仏教には永遠に無理なことなのです。

宗教は商売だからです。

人は昔から木でできた棒状のものに

『男の力の源』という意味をつけ,崇拝していました。

聖書にはヤハウエ崇拝と敵対したバール崇拝という信仰がありました。

今でも工具に『バール』として名前が残っていますが、

単純にいえば男根崇拝なのです。

バール崇拝は歴史とともに消えましたが、

性の密儀として乱交を行っていたので

まともな人からすれば邪教として

扱われていました。仏教も仏像は男根なのです。

男根崇拝はなかなか消えません。

神道にも巨大な男根を祭った神社がありますが、

宗教はおろかなものであることに気づかないといけません。

私の家にも浄土真宗のお坊さんが来ますが母が死ねば関係を絶ちます。

私は私の道を行きます。

覚醒したからといって涅槃に入滅できる訳ではありません。

わたしはブッダとしてこの社会で何が出来るか考えてみます。

もう寝ますね。今日はこの辺で書き終わります。

In EDEN’s garden. エデンの園にて


今日から秋の始まりだとテレビでは言っていましたが、

暑さは引かず私はだれています。

前回から引き続き聖書の話題をしたいと思います。

モーセがシナイ山の上でヤハウエから授かった十戒

これはトーラーと呼ばれていますがこのトーラーとは、

日本語の『ほらー(見よ)』とか、『そらー(見よ)』

という言葉につながる言葉で(方向性)を表しています。

どちらへの方向性かというと、

『慈悲』への方向性を表しています。

つまりモーセの律法はすべて心を慈悲の方向性へ向けろ

ということを表しています。

これは日常の中で慈悲を実践するのは難しいことですが、

少しでも心を慈悲の方向へ向けるのが人間の、

神から与えられた定めなのです。

聖書には人間の最初の人である

アダムとエバについて書かれていますが、

最初の二人がいたのはエデンの園ですが、

ここはどこにあるのかということは昔から話題になっていましたが、

これは心の中を表しているのです。

園の中央には、善悪の分かる木と命の木があるのですが

命の木が成長するのは慈悲心を心にのばすことが

命の木が成長することなのです。

エデンの園の東には回転する炎の剣とケルビムが置かれていますが、

これは回転する炎の剣とは、

心の中で奥深く無意識が回転することなのです。

本当に心にそんな現象があるのかと言われると、

私自身の個人的な体験の範囲内ですのでなんともいえませんが、

無意識が螺旋状に回転することは、

古代からの絵画や、遺跡や縄文土器にも描かれていることなのです。

このことを昔、大阪医科大学の精神科医の先生たちに言うと

非常に驚かれました。

ケルビムについては私は分かりません。

犬のことをヘブライ語でケルベロスと言います。

日本では狛犬としてその痕跡が残っています。

ケルビムは天使ではなくて犬なのです。

エデンが心の中にあるということは

人々が大きくなるにつれて失っていく幼心のもとを表しています。

おさなごころにはかわいそうという慈悲心のもとがあり、

これは人が大きくなるにつれて失われていくものです。

本当の自分と出会うことはおさなごころと出会うことでもあります。

私は覚醒してから、小さかった時の記憶が甦りました。

エデンがどこにあるのか。どこを探してもありません。

心の中にあるのです。

ユング派の心理学者でいまは

山梨大学の教育学部の助教授をしている吉川真理さんに昔、

カウンセリングしてもらったことがあって、

私の資質のことを『土の器』と言って下さいました。

私はユングは心のモデルを心理学的に科学的にモデルを描いただけで、

心の奥には入ってはいないのだと思います。

こころの『回転する炎の剣』は

炎の剣なので非常に危険な精神状態で

下手をすると空無に巻き込まれて白痴になるのです。

だれでも入れる訳ではないのです。

命の木をのばすには慈悲心を持って行動するしかありません。

今日はこの辺で書き終わります。

世界の基準が置かれて以来隠されて来た事柄


今日この頃は暑さがどんどんキツくなって来て

夜も熱帯夜になっています。

最近は兄に子供が出来たので

母が代わりに子守りに兄の所へ行っています。

兄は私と違って宗教にのめり込んでいます。

兄の宗教は統一教会です。

統一教会員の桜田淳子と同じ日に集団結婚しました。

文鮮明が作った統一教会の教典は読むのもあほらしいもので

無理矢理聖書に話しをくっつけていますが、

どことなく幸福の科学と同じ匂いがします。

どちらも以前の仏教やキリスト教の宗教の権威を身にまとっています。

ヒエラルギーや権力は聖書では悪とされているものです。

それを統一教会や幸福の科学は身につけています。

他の宗教ももちろんものみの塔も権威、

ヒエラルギーを身にまとっています。

これは宗教には付き物で、ヒエラルギーの無い宗教はありません。

バベルの塔の物語がありますがその物語が象徴するものは

人間が作って神によって解体されたものは組織でした。

バベルはヘブライ語で<混乱する>という意味があり

バベルの語形変化する前はバラバラという言葉で

日本語と通じているのです。

ヒエラルギーや権威が聖書においてなぜ悪かというと

それは無慈悲さを表しているからです。

聖書において何が罪かというと、無慈悲さが罪なのです。

これは犯罪者である聖パウロを信じている

キリスト教には守れない価値です。

歴史的に殺人をして来たキリスト教には遠い狭き門です。

宗教は人を盲目にしてしまいます。

オウム真理教のようにあれだけ賢い

東大とか京大の出身者を殺人鬼にしてしまうのです。

これはキリスト教でも同じことです。

皆さん宗教に救いを求めても人を抑圧する組織であることは

どこへ行っても同じことです。

これは浄土真宗でもそうです。

聖書の神であるヤハウェは『エジプトのようになってはならない』

と言いました。

古代のエジプトのように大ヒエラルギーを

形成してはならないということです。

ヒエラルギーは大量殺戮も可能にしてしまいます。

無慈悲さに通じています。

皆さんに言いますが聖書を信じるということは

ヤハウェの言葉を,イエスの言った言葉を信じることです。

聖書にもヒエラルギーを作った人が登場しますが

アンチヒエラルギーの人も出てくるのです。

この二つの力関係が聖書の中心の思想です。

モーセはもちろんノンヒエラルギーです。

この二つの力は聖書で

世界の基準が置かれて以来隠されて来た事柄の一つです。

みなさん聖書をキリスト教から救い出しましょう。

今日はこの辺で書き終わります。

宗教の妄信に気をつけてください


最近、自分の周りで私のブログを見ている人が多くなってきたので、

一週間に一度は書くようにします。

聖書のことを書きますね。

キリスト教を作ったのはパウロというキリスト教では

聖人として扱われている人ですが、

パウロはもとの名前はサウロといい、

ヘブライ語で言い換えるとシェオルつまり地獄という意味なのです。

実際にキリスト教は世界に地獄のような世界を作りました。

キリスト教自体が歴史的に魔女裁判や十字軍などで

殺した人は何百万人ですが、

アメリカなどのキリスト教を信じる国自体の戦争が

私たちの生きている世界の脅威となって、

悲劇的な状況を作り出しています。

キリスト教はイエスよりもパウロのことを信じていますが

パウロの狂信で出来たキリスト教の教義は

信じると救いようが無い状態になります。

聖書は「陸や海を行き巡るパリサイ人」と

パウロが登場することを預言しています。

パリサイ人は伝道しなくても信者がくる

古代のユダヤ教の大きな集団でした。

聖書に出てくる人には名前のヘブライ語に意味があり、

アダムは「ひと」、エバは「生きているものすべての母」など、

名前に重要な意味があるので、

パウロのもとの名にも重要な意味があるのです。

私はこのことを通して何が言いたいのかというと、

聖書は注意して読まないと何十年も妄信を信じることになり,

人生が徒労に終わりますよと言いたいのです。

みなさん、宗教は信じない方が安全ですよといいたい。

今日はこの辺で書き終わります。