宗教に関する雑感など・・・

皆様、新年おめでとうございます。

今年もよろしくお願いします。

今年も元気よく過ごしたいと思います。

仕事も一ヶ月を過ぎ、

もうそろそろ一人で仕事ができるようにならないと

いけないようになりました。

今年も様々なことを考えていきたいと思います。

私のつたない考えを読んで下さりありがとうございます。

このブログは重要な考えをその時々の私の頭の容量で考えているため、

あまり深いことが言えていないかもしれませんが、

これが現在の<私>であると言えるものです。

だから同じ話題を繰り返すかもしれませんが、

より深く考えを進めていると思います。

このようなブログのつかいかたは

あまりされていないかもしれませんが、

<例外>で行きたいと思います。

文学の同人誌ではあまり言いたいことが言えないし、

読者も限定してあまり読んでくれないので、ブログはいいですね。

今年も愚かなことを言ってしまうかも

しれませんがよろしくお願いします。

私は過去の出来事で自分がしでかした愚かなことが

フラッシュバックのように思い出して落ち込むことがあります。

これは、あまり人には言いたくないことなので

ブログには書いていませんが、ひどく落ち込みます。

自分が愚かであることを自覚していることが救いではないでしょうか。

自分はブッダだと書きましたが、

仏陀以上のことは言えていないかもしれませんが、

自分が宗教を作ることの愚かさだけはしていないことが

救いかもしれません。

聖書では,石を積み上げたモニュメントも作ってはいけない、

石を積み上げるという原初的な宗教の行為もしてはならないと

トーラーには書かれています。

それだけ人間の行為を厳しく見ている神様は

ヤハウエ以外にありません。

だから、墓石もトーラーに反しています。

ただの石に水をかけたり捧げものしたり拝んだりすることは、

現実を見てないことと同じことであるということです。

聖書の初期の記述に聖書の登場人物が

祭壇を築いて捧げものの牛を焼いたと書かれています。

聖書のトーラーには祭壇を築くにもさまざまな規定がありますが

それが宗教につながることであれば禁止されています。

古代から様々な宗教的なことが行われて来たけれども、

ヤハウエから外れていること、

慈悲を行うことから外れていることは

すべて人間の愚かな行為であること、

人と人との間を裂くことはヤハウエの望んだことではないのです。

また今年も聖書の話題から始めますが、

人間が無意識にしたがっている伝統的な宗教的な行為には、

聖書の神が禁じているものもあります。

神道の集金装置である賽銭箱ももとの由来は聖書にあります。

イエスの時代にあったエルサレム神殿には賽銭箱がありました。

人は犠牲の鳩を露店で買って神殿に納めました。

しかしこれは神の決めたことではなく

人間の愚かな行為によってできたものです。

賽銭箱はご利益信仰の人のためにできたもので

深い意味はありません。儲かるのは神道です。

毎年ニュースで神社のお金を数える様子を伝えていますが、

みんな馬鹿だなと思います。

神道に人々を幸せにする能力はありません。

みんな伝統的に刷り込まれたものにだまされています。

聖書の神を信じるのにお金はいりません。

良心さえあればいいのです。

今年もこんな話題から始めますがよろしくお願いします。

今日はこの辺で書き終わります。

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